ほぼすべてのものごとには評論家や批評家がいる。
身近なところでいえば、映画やアニメといった娯楽作品で特に目立つことだろう。
あらかじめ断っておくが、感想を述べるな、考察するな、批評するな、評論するな、と言いたいわけではない。
他の分野の知識と結び付け、この解釈も出来る。という「可能性」を述べている人間は最初から視界に入っていない。
あるいは、作者自身が影響を明言している。もしくは、あからさまにモチーフとしている場合。
このようなものは、考察というより、事実の確認である。
問題視しているのは、この解釈が正しいと「断定」している人間。
それで飯を食っている連中を嫌悪しているということだ。
ぐちゃぐちゃいう前に、読者諸君と馴染み深い具体例を出してしまう方が早いだろう。
アニメならエヴァンゲリオンと聖書、ゲームであればロマンシングサガのシステムとそのフォロワーたち。
これらは一見してすぐに分かるし、隠そうともしていない。
危険なのは、本編が聖書とかかわりがあるからといって、そこから主題歌の考察に飛躍し断定していくこと。
考察としては面白いとは思うが、別物であるのだから断定は控えていただきたい。
ロマンシングサガも同様で、戦闘システムが同じだからといって、そこだけに引っ張られず、差異を見るべきだと考えている。
単純にシステムが面白いから真似してみたのか、それとも自らのプレイで得た経験をもとに、改良したシステムを遊ばせたいのか。
これらである。
元となる作品が無ければ、成立しない存在だという身分を弁えてくれ。
さも訳知り顔で、この場面は哲学や神話から引用で、これは何々のメタファーで、と断定している。
作者に否定されているのにもかかわらずだ。
制作側から、名指しで迷惑な人と呼ばれている個人がいる。
それでも、そいつは自らの主張を曲げない。
金や名声が欲しいからであろうか。
さらに厄介なことに、評論家や批評家たちは、自らは一般的な消費者より上の立場だ、という態度を示している。
自らをクリエイター側に置きたいのであろうか?
もしそうでもワナビに過ぎない。
それ以上に複雑なケースも存在する。
他の分野で成功を収めたものが、別の分野に手を伸ばし、評論する。
これは、一見正当性があるように見えてしまうが、実際には消費者としては何も変わらない。
例外的に、自らが成功した分野と、今評論している作品を独自の視点で接続している場合。
私はこれを受容する。
別の分野の人間から見た場合の評論となり、主張の具体性や独自性が増しているからだ。
この場合でもやはり断定してしまうのは好ましくない。
他にも例外が存在する。
金銭的な目的ではなく、実際の社会への影響、文化的な役割、その作品がどのような文脈から作られたのか、これらを研究している人間。
私はこれも受容する。
仮に断定していても、学説という形を取っている以上、少なくとも反論や検証を前提としている。
ただし、その場合、評論家や批評家とは呼ばずに、研究者と呼ぶことにしている。
補足しておくと、彼らの発言内容自体には、同意できる部分があることは多いのも事実だ。
それでも、結局は一消費者に過ぎないのだ。
作者の脳内、物理的、金銭的、制作会社、規制。
これらの事情を知っているのか?
評論家が、制作側に回って失敗した例、成功した例も知っている。
これは、誠実な態度であると「評価」する。
実際に創作してみないと分からないことが必ずある。
予算、技術上の都合、スポンサーからの圧力、といった現実的な問題にぶち当たることだろう。
世の評論家と批評家は、何度かそのコンテンツを作りなさい。
その勇気が無いのであれば、それを考慮したうえで論じなさい。
知識人ぶった、ただの消費者が、分かったような物言いをする行為を恥じなさい。
最後に、私がなぜ、「断定」する評論家達を、ここまで執拗に攻撃しているか、という点に触れる。
冒頭に書いた通り「可能性」を論じるのは自由だ。
一方、断定する側が、ある程度の影響力を持ってしまっている場合、考察にとどまらず、共通認識として定着してしまう恐れがある。
公式が言っていたと誤認してしまうケースすら存在している。
そうすると可能性が潰されてしまい、表現を楽しむ余地が狭まってしまう。
そのため、私は仮定ではなく可能性という言葉を使用している。
以上が私の「批評」である。
当然、私自らも、世の批評家や評論家達が、どのような事情でその理論を展開しているのかを知らない。
もしかしたら、制作側から高評価してくれと頼まれているかもしれない、私怨で低評価をしているのかもしれない、ただ逆張りしているだけかもしれない。
金銭的な事情で、生きていくためにやむを得ずこういった事をしているのかもしれない。
私もそれを考慮したうえで批評している。
マトリョーシカのように私の主張を批評する者もあらわれるのだろう。
そもそも批評という営み自体を、根本的に理解していないという批評がなされることも十分に考えられる。
それでも私は書かずにはいられなかった。
たとえそれが、感情の発露にすぎないとしても。
