本来、教養そのものに絶対的な定義はない。
人格形成のために様々なものに触れ、物事を多面的に理解するためのものであった。
それを、大学や知識人が長い時間をかけて、線引きしてしまった。
これは大衆文化だ、これは教養なんだと、当時のエリート層の人間たちが、自然と形成していったものだ。
私はこの線引きや、現在の教養の扱われ方にはまったくもって賛同できない。
それにまったく疑念を抱かず、『教養』を振りかざす者とは一体なんだ?
例えば、音楽史や音楽理論。
誰が、いつ、どこで、どの音楽理論を確立したのか。
ジャンルの成り立ちや、楽器の歴史的変遷などだ。
当然、これらを理解するには西洋音楽史やクラシック音楽、音楽理論の知識が必要となるわけだが、これは、世間一般の『教養』とみなされる。
じゃあ、アニメやゲームや漫画といったものの知識は?
これはジャンルの成り立ち、どのような文脈から生まれたものか、後の創作に及ぼした影響、実際の人間社会に与えた影響。
これらの観点から深掘りをすると、十分に教養の対象となり得るが、一般的に『教養』だとみなされることはない。
扱う対象が違うだけで、知識を掘り下げる営みそのものは変わらないにもかかわらず、現在の教養観では、そのように線引きされているからだ。
そして、『世間一般の教養と呼ばれているもの』を得るために必死になっている輩。
はたして、それは教養を得たと言えるのか?
『教養』という看板が掲げられたものに触れただけで、教養人になれるのか?
何事も深く掘り進め、それを歴史・社会・芸術・哲学などと結び付けて考えられる。
それが教養人なんじゃないのか?
倍速再生やYoutubeやWikipediaをサラッと見て、教養を得られると本気で信じているのか?
知識を収集するだけで終わらせず、その知識を用いて、様々な物事を理解しようとする営みこそが、教養人の姿なのではないのか?
質の悪い事に、教養をマウンティングの道具として振り回す人間が大勢いる。
それが教養人の姿なのか。
一度、自らを見つめなおす時間を作った方がいいのではないか?
……と、ここまで書いておいてなんだが、私もまた「教養とはこうあるべきだ」と再定義し、それに類するマウンティングをしているだけなのであろう。
