これは「子供に自分のコンプレックスを克服してもらう」という代理解決のための作業であることが多い。
読書といっても大衆文学は娯楽であり、漫画、映画、ゲーム、テレビ、アニメと変わりがない。
「本だけ」に価値を置くのは、「媒体」と「内容」を混同している。
媒体そのものに優劣を設定すること自体がおかしい。
そして上記に挙げた娯楽群と小説では、表現方法が異なる。
異なる媒体(小説、映像、ゲーム)の表現手法を比較する経験自体が、メディアリテラシーや多角的思考力を養う機会になりうる。
一つの媒体に限定することは、その比較の機会を構造的に奪っているだけである。
ゲームのインタラクティブ性、映像の時間的連続性、テキストの想像力への委譲、これらを比較し、それぞれの表現方法が「何を可能にし、何を不可能にするか」を考察すること自体が、認知の柔軟性を鍛える。
本だけを読ませる行為は、子供に「世界を一つのレンズだけで見る」ことを強制するものであり、それは想像力の拡張ではなく、想像力の閉塞だ。
さらに、共通の媒体を通じて同級生と体験を共有するという、心理的な経験を奪っているため質が悪い。
娯楽であふれている現代では、本しか読んでいない子供など少数派であろう。
「同級生と共通の話題でコミュニケーションを取る」という行為を奪うことは、子供の社会性を育む機会を意図的に削っている。
当然スポーツや音楽など他のアプローチで社会性を育むことはできるが、選択肢を大幅に狭めている事実には変わりない。
学校はただ勉強するだけの場所ではない。
コミュニケーション能力や、協調性を育む場所でもある。
「本だけを読ませる」という教育そのものが、子供の成長に必要な多様な体験を損なうもので、本来親が子供に身につけさせたいはずの「物事を多面的に見る能力」と矛盾する。
物事を一面的にしか見ることが出来ない馬鹿な親が行う行為だと極めて辛辣に見ている。
最後にその親たちの特徴を挙げてやろう。
ほぼ確実に子供の読書量を誇っている。
ショーペンハウアーの「読書について」を読んだことが無いのであろう。
具体的な本の内容については割愛しておく。
なぜなら、ここで内容の説明を必要としている時点で、「そういう親」だからである。
「本を読ませている自分は正しい」と疑わない親。
その自己満足を、子供の読書量という数字で補強している。
教育というより親自身の自己評価を子供に代行させているだけである。
そもそもショーペンハウアーという人物を知らない可能性すらある。
この時点で親の程度が知れる。
所詮カエルの子はカエルである。
そして、直前の文章における「ショーペンハウアーを知らない人間は低俗」という私の主張が、「本以外は低俗」という、私が批判している「一面的な価値観からしか判断することができない親」と同一の主張になってしまっている事すら認識できない。
上記の条件に当てはまる親どもへ
理解出来ましたか?
必死に本を読み教養をつけて、この文章を読み取ろうとしてくださいね。
それとも、上記の論に対してネットで情報を集めて反論を試みますか?
じゃ、頑張って。笑
